一を聞いて十を知る珈琲教室
人は自分の聞きたい事しか聞けない
先日、お坊さんと、マスターと、ネコママの3者でお話をしていて、いくら人を救いたいと思っていても、”救われたくないと思っているヒトは救いようがないよね”というような話をしました。
お釈迦様がいくら両の手を広げて民を拾い上げようとしても、その両の手から勝手にこぼれ落ちていく人はどうしようもないという事でしょうか。
珈琲教室は12年の歴史
今度焙煎のコーヒー教室をすることになりました。
コーヒー教室というコンテンツは10年以上前に作ったのですが、そろそろバージョンアップさせないといけないよねと、ネコママと相談していたところです。
人は意外と何も吸収できない
実はこんなことを言うのもなんですが、最近小生は人に何か教えるという事に対して消極的になっています。
コーヒー教室のコンテンツを作った直後はこれでもかというくらい、いろんな情報や技術を伝授しようと躍起になったものでした。
しかし、数多くのコーヒー教室を開催して感じたことは、”人というものは意外と何も受け取れないものなのだな”、という事でした。
天才は一を聞いて十を知る
たまに、顔回やサーリプッタ、ネコママのように一を聞いて十を知る、いわゆる天才がいることも確かです。
ですが、小生も含めてほとんどの方は10を聞いてもせいぜい2か3くらいしか受け取れないものです。
いくら此方が躍起になって色んなことを伝授しようとしても、ほとんど両の手からこぼれ落ちてしまいます。
学べるかどうかは受け取り手次第
体の細胞にはレセプターというものがあります。
日本語で言うと受容体とでもいうものです。いわゆる受け取り手のことですね。
この受容体がないといくら色んなデータが体の中に入って来ても、そのデータは素通りするだけです。
コーヒー教室にしても同じで、受取手にそれを会得する準備ができていなかったり、そもそも受け取る気がなかったり、受け取る資格がなかったりしたら、いくら有益な栄養も、心にも体にも、届かないという事です。
ですので、今はその方に相応しい物は何なのか?という事をよく観察してから、コーヒー教室を開催することにしています。(^_-)-☆
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